父との思い出

父の急逝に際しての話をどこでどのように締めればよいのか分からなくなってきました。
生前の父について思いつくままつらつらと書いて締めようと思います。


遡りましての父に関する最も古い記憶は海ですね。
父が生まれ育ったのは千葉県習志野市津田沼。今でこそ埋め立てられて海岸線が遠くなってしまいましたが、父の青少年時代は父の実家からすぐ近くが遠浅の浜辺でしたから、父は海での遊び方を知り尽くしてました。

伊豆、湯河原、九十九里、館山などなど、夏は必ず海に連れて行ってくれて、泳ぐ父の背中につかまりつつ聞いた波の音は今でも鮮烈な記憶として残ってます。

父から見て孫にあたる私の子達は潮干狩りによく連れて行ってもらってました。
アサリやハマグリを足で探って簡単に見つけてしまう父のことを「じーちゃん凄いんだよ」と興奮気味に報告してくれたのは長男でしたか。海に関しては我が家の大先生でした。


父との思い出に欠かせないのは、やはり七年祭でありましょう。
下総三山の七年祭は数え七年=6年に1度の大祭なものですから、「6年に1度のことだから馬鹿になりきる!」と公言し、事実その通りに大祭の4日間は母も私らも津田沼の実家に放置して神輿担ぎに没頭してました。

かく言う私も16の年に七年祭デビュー。
高2でしたが、高校の文化祭2日間のうち1日をサボらされての強引な引き込みに「えーかげんにせーよ」という思いも無きにしもあらずでしたが、そんな思いは七年祭の面白さが木っ端微塵に吹き飛ばしました。
ここでお酒も覚えましたし(時効 A^^;)、私を七年祭に引き込んでくれた父には心より感謝しております。

一方、母の前で「七年祭」は地雷にも等しいNGワード。
前述したとおりの放置プレイin父実家は語るに及ばず、母の母、つまりは私にとっての母方の祖母の忌中(喪中ではなく)に神輿を担ぎに行ったことは痛恨事でした。母が離婚を本気で考えた唯一の出来事。
さらに、七年祭デビューの弟が神輿で脚にケガを負いましたからね。常識で考えれば近親者の忌中に神輿を担ぐなんてのは禁忌の最たるものですよ。当時の母、よく堪えたなぁと思います。

弟はあれ以来神輿を担がないのですが、私はそのまま祭馬鹿継続。
今回、さすがに父の忌中に担ぐことは自重しましたが、今後も父と同じ轍を踏まないように気をつけます。


私が成人してからというもの、父とは実に酒が合いました。
私が酒を覚え始めの20代前半の頃、勤務先の本社が渋谷にありましたので、本社に用事があると父の勤務先である御徒町に立ち寄りまして、駅前のホッピーと焼き鳥で始まり、次は母や妻には語りづらいお店で気分よく飲み、上野発の最終1本前の電車で帰るというのが常でした。

父が飲む酒は、痛風を患ってからは焼酎のお湯割り梅干し入りに落ち着きましたけれども、ホッピー、ビール、スコッチ、バーボン、ブランデー、日本酒、ワイン、etc.、どの酒でも美味しく感じるツボを心得ていました。飲めば陽気な笑い上戸。私にとっては正しい(?)酔っ払いのお手本でした。

ただ、やはり還暦を過ぎたあたりから酒が弱くなり、酒に呑まれることも多くなりました。
1度だけ、次男絡みの話で私が怒鳴り、掴みかかる寸前で父が引いたことがありましたけれども(旧ブログに書いた記憶があります)、あれも酒に呑まれてのことかなぁと今は思います。

階段に穴をあける、ふらついて水路に落ちる、畑に落ちて土まみれになる、といった酒の失敗はやはり還暦を過ぎてのものが多く、家族としては体が心配でしたから「休肝日を設けたら?」とか「お酒も少し控え目にしてはどお?」と母を筆頭にやんわりとたしなめるのですが、「好きなものをやめてまで長生きしたくねえ!」と撥ねつけるのがオチでした。

酒もタバコも存分に飲っての72歳。そう考えれば充分に長命だったようにも思えます。


思い出話は尽きないのですが、亡くなってから気付いたこともポツポツと出てきました。

私がネット上で使用する「甚之介」という名前は、父に影響されて読み始めた池波正太郎の「剣客商売」に出てくる脇役から拝借しているものですが、池波正太郎をほぼ読み終えた父が
佐伯泰英の時代小説シリーズに傾倒していたことを、お棺に入れるものを探していた際に知りました。

多臓器に転移していた癌の影響か、目の焦点が合わなくなったと言って入院先に持ち込むことをせず読みかけのままだった「居眠り磐音 江戸双紙」シリーズの最新刊ほか数冊をお棺に入れましたから、今頃はあの世で読みふけっていることと思います。


父がご機嫌な時に風呂に入ると、風呂場から聞こえてくる民謡がありまして、あれは何という民謡だったのか知りたくなり、耳に残るフレーズ「へーらもしゃーくしもー…」で探しましたら…見つかりました。

秋田酒屋唄。
ここでも酒か、と笑い泣きしてしまいましたが、末期の水ならぬ末期の酒を酌み交わせなかったことだけが後悔です。私の今の仕事が朝早いので、家ではあまり飲まなくなってましたからね。後悔先に立たず。父の分まで子や姪と酒を酌み交わそうと思います。


父の話は、通夜や告別式の際も同様でしたが、明るい話ばかりで湿っぽくなりません。父の人生が明るく楽しいものであったことの証左だと思います。

話は尽きませんけれども、父の人生に関わった全ての皆様に感謝を申し上げ、このへんで締めさせて頂きます。

ありがとうございました。




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