選手の謝罪@リオ五輪

昨日に引き続きまして、今年の振り返り記事になります。
今年の漢字が「金」=オリンピックイヤーということで、リオ五輪で話題となった「選手の謝罪」について、振り返りつつ考えてみたいと思います。

まず、謝罪の是否の前に、なぜ謝罪するのか?ですけれども、それは約束を果たせなかったからでありましょう。

ただ単に壮行会等で「金メダルを取ります」と約束しただけではないのです。
そう約束することによって、有形無形・大小・企業団体個人を問わず多くの支援を得たということを、選手は充分すぎるほど自覚しているのです。

また、メダルを狙える競技・選手であるか否か、金メダルの可能性が高いか否かによって、JOCを介して手にする強化費や報奨金が大きく左右される上、それらの大半が税金から拠出されているということもまた、選手は自覚しています。

となれば、約束した色のメダルを得られない結果に終わったとき、その約束を広く公言してきた選手ほど謝罪が口に出るというのは、日本人の感覚としては実に自然なことであると言えます。


一方で、これは「おそらく」の但し書き付きになりますが、プロは謝罪しないのです。

プロは常設のスポーツ興業や知名度を活かしたタレント活動による収入によって、生計を立てると同時にアスリートとしての能力向上および維持に務めてます。

リオ五輪でもゴルフやテニスの選手に垣間見ることがありましたけれども、4年に1度の五輪や1年に1度の世界選手権はボーナスステージでしかなく、本業へのリスクがあれば躊躇なく不参加を表明し、自らのステータスを上げる好機とみれば参加する、それがプロです。

となれば、まぁ日本文化的に形式上の謝罪をすることはあっても、号泣しつつ謝罪するようなことはまずありませんよね。

極論、全ての五輪選手がプロアスリートとしてメシを食えるようになれば、選手の謝罪は無くなるってことです。

選手に「謝る必要などない」と言うのは簡単なことですが、それを言う前に、世界でも指折りの経済大国であり、世界でも指折りのメダル獲得数を誇りながら、アスリートがプロとして成立しえないほどに貧困な日本のスポーツ環境、これを根底から変えていく必要があるのだと思います。

しかし残念ながら、リオ五輪を終え、4年後に東京五輪を控えた今になってもその機運はありません。

JOC経由の補助金と国民有志の浄財で五輪に出場している限り、謝罪せざる得ない選手の心の負担は消えないでしょうが、スポーツ庁が文科省配下であるうちは見込みはないと思ってます。
彼ら、アマチュアスポーツが善でスポーツで金を稼ぐプロは悪とさえ思ってる節がありますからね。スポーツ庁がスポーツ省に昇格して文科省から独立しないことには始まらないのかな?

なお剣道については、選手がプロ化したらオシマイだと私は思ってます。
という話は長くなるのでまた別の機会に。A^^;




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