理想の立合とは?

夏場所十二日目の白鵬-稀勢の里を、とくに白鵬について強く批判をしましたけれども、ならば理想の立合とは?というものを語らないでは片手落ちであることに気付きました。
実は、立合については旧ブログにて既に述べてます。2008年の記事です。マスオさんのブログにてこの記事を取り上げて頂きましたので、これを焼き直し、あらためて提示してみたいと思います。
まず、大前提ですけれども、立合とは両力士が取組を開始する瞬間のことを指し、取組の開始は力士双方の合意によってなされます。
この点、重要です。ものすごく重要。
大多数の格闘技系競技における競技開始が、なぜ、審判などの第三者に託されるかといえば、相手を信用の置けない敵とみなしているからです。
それに対し、対戦する者同士の合意によって競技を開始するには、信用の置けない敵同士の関係では成立しません。お互いにリスペクトする関係であることが大前提となります。
このことは、立合という競技開始形態が、大相撲が争い事における敵を滅するための技法から発祥したものではなく、神事あるいは五穀豊穣を願う”力”の奉納を由来としていることを指し示す、とても重要な部分であることを意味するのです。
しかしながら、対戦する力士同士の合意による立合は、なかなか難しいものがあります。
まずは呼吸を合わせなければなりません。ゆえに、立合の所作が定められてます。
すなわち
- 蹲踞の姿勢から立ち上がる
- 腰を落として上体を下げ、片方の拳を着く
- 両者同時にもう片方の拳を着きつつ、相手にぶつかって行く
という所作です。
現在、上記2から3の「両拳を着いて立つ」ことばかり注目されてますが、少なくとも上記1から呼吸を合わせなければなりません。
さらに、上記1における蹲踞から立つ際の所作ですが、下位の力士は上位の力士より先に立ってはいけません。
これは「下位の力士が上位の力士を見下ろす形になるのはまかりならん!」というのも理由の一つですが、それよりも「両者合意による立合いのための呼吸合わせはとても難しいので、相撲がより熟達している上位の力士がリードする形で呼吸を合わせましょう。」というのが主たる理由です。
例えば横綱vs平幕の場合、以下のような立合が理想です。
【平幕の視点】
- 横綱が蹲踞姿勢に入ろうとする呼吸を読んで、同時に蹲踞する
- 横綱が立つ呼吸を読んで、同時に立つ
- 横綱が腰を落とす呼吸を読んで、同時に腰を落とす
- 横綱が片方の拳を着く呼吸を読んで、同時に片方の拳を着く
- 横綱がもう片方の拳を着く呼吸を読んで、同時にもう片方の拳を着いてぶつかる
【横綱の視点】
- 平幕が蹲踞できる状態であることを確認して、蹲踞する
- 平幕が立てる状態であることを確認して、立つ
- 平幕が腰を落とせる状態であることを確認して、腰を落とす
- 平幕が片方の拳を着ける状態であることを確認して、片方の拳を着く
- 平幕がいつでもぶつかれる状態であることを確認して、もう片方の拳を着いてぶつかる
【観客の視点】
- 横綱と平幕が同時に蹲踞している
- 横綱と平幕が同時に立っている
- 横綱と平幕が同時に腰を落としている
- 横綱と平幕が同時に片方の拳を着いている
- 横綱と平幕が同時にもう片方の拳を着いてぶつかっている
要するに、内実は上位の力士が下位の力士をリードしてるのですけど、観客の目には、立合までの所作が同時に行われているように見える、そんな立合が理想と言えるでしょう。
今の大相撲は上記1~5のどの所作もバラバラ。最後の上記5の場面だけ合わせようとするから1回で立てないのです。
さて、その観点から「立合いで両拳を着くことの重要性」を考えますと、実はさほど重要ではないのです。
上記に挙げた横綱vs平幕の例を再読して頂ければ分かると思うのですが、上記4の場面での片方の拳を着くことはともかく、上記5の場面でのもう片方の拳を着くことはお互いに確認してません。
横綱は平幕の状態を見て立合います。平幕のもう片方の拳なんか見ません。
平幕は横綱の呼吸を読んで立合います。横綱が両拳を着くのを見てから立つのでは立ち遅れてしまいます。
なので、力士や親方衆から「呼吸が合えば両手を着かなくてもよい」あるいは「呼吸が合っていれば片方の拳さえ着いていればよい」といった意見を漏れ聞くことがありますけれども、意味合いとしては正しいのです。
※規則上の話ではなく、相撲原理上の話として正しいという意味で
よく「自分のときは片手すら着いてなかったじゃないか」と言われる北の湖の現役時代などが好例かと思いますが、前述した横綱vs平幕の例における3までの所作で呼吸を合わせていたから手着きが無くとも立合が成立していたと言えます。
サンプルとして↓YouTube – 昭和59年夏場所8日目 北の湖 対 朝潮↓
では、なぜ現在は両拳を着くことの徹底が求められているかと申しますと、2つの理由があります。
1つ目の理由は、「力士同士の合意による競技開始=立合」が成立する前提条件であるはずの「お互いにリスペクトする関係」が、今の大相撲では崩壊しているため。
力士同士が敵同士の関係にあるから、両拳を着かねばならないルールだろうが、着かなくてよいルールだろうが、その許された範囲内で相手の意図するタイミングを外して立とうとします。
ならば、その範囲が狭くなる「両拳を着くルール」を徹底させることが、立合の正常化を進める方策としては最も手っ取り早いのです。
ですが「両拳を着いているけれども呼吸を合わせない立合」もあります。 片方の拳を下ろした後、もう片方の拳を着く際にフェイントを入れるなどがそれですけれども、現在の大相撲では当たり前に見られる光景ですよね。
あの十二日目の白鵬-稀勢の里でさえも、両雄ともに両拳は着きました。が、呼吸は全く合わせておりません。「両拳を着くルール」からもう1歩進めるべき時ではないでしょうか。
2つ目の理由は、大相撲ならびに日本相撲協会の権威と信用が失墜しているため。まー、色々ありましたからね。
ゆえに、北の湖理事長が、伊勢ヶ濱審判部長が、あるいは名横綱かつ人気者だった貴乃花親方が、「両拳を着かなくとも呼吸が合ってるからよし」としても、観客は納得しないでしょう。
よって、素人でも分かる目に見える形で立合が成立したことを示す必要があり、それが「両拳を着いて立つこと」なのです。が、私は先述したとおり「呼吸を合わせて立つこと」を最重要視しておりますので、着き手不十分はさほど気にしておりません。
つまり理想の立合とは、両拳を着いて立つことではなく、あくまでも「呼吸を合わせて立つこと」です。そしてその前提条件は「お互いにリスペクトする関係」が構築されること。
平幕には無理な話かもしれませんが、せめて役力士の相撲にはそれを求めたいものです。
甚之介さん、横綱と平幕の立場が逆です。
下位が上位を待たせてはいけないんです。
だから先に動いてよいのは下位です。
ましてや上位があからさまに先に動いて先に仕切りの構えを固めてしまっては、下位は立っていくことができません。
だから双葉山は、左拳をおろして右拳をおろし始めるまでは相手よりあと、最終的に右拳を着くのは概ね(「概ね」は下記で恐らくお分かりになるかと)相手より先、という形を69連勝ストップ後につくったんです。
所作3段階については、どんなに悪くても2で腰を決めたところでちゃんと合わせ直さないといけないんですが、昭和30年代頃からそれが抜け落ちて、50年代くらいから戻ってきたんですけど、形だけです。それから、蹲踞から立つのは行司のかけ声のあとでないとダメなんですけど、全然気に掛けない人もいます。
横綱と平幕の視点が概ね逆になるのは上記で明らかですけど、他に、4と5は片手ずつに限定してはいけません。
両手を同時に使いたい人、例えば今だと松鳳山、さかのぼると曙、さらにさかのぼると五ッ島なんかは両拳同時におろすのが当然ですから。
なので、相手よりあとに仕切りに入るという意味においてのみ(「のみ」は意外と重要)白鵬の仕切りは是認されますが、白鵬の欠点だったのは、相手を待たせる時間が理由なく長すぎるというのが1つあって(昨年あたりからやや改善)、今でも致命的なのは、相手の呼吸を一切顧慮しないためただただ功利的であるということ、そしてその根幹を為しているのが、本人が頻りに言っていた「後の先」が全然分かっていない、ということです。白鵬にこの問題がなければ12日目の立ち合いは白鵬1:稀勢の里9ぐらいの責だったんですが、白鵬がこんなありさまなので、白鵬6:稀勢の里4と私は考えています(稀勢の里の4は早く立とうとしすぎた上に苛立ちすぎ、白鵬と同レベルに落ちたためで、これ以上割り引くことはできかねます)。
14日目の栃煌山-豪風の制限時間1つ前の仕切り、(栃煌山の各動作が遅すぎるのが難点ですけど)なかなか良かったですよ。
昨日コメントを送信したはずだったんですが載っておりませんので…あれれ?
さて本題なんですが、上位と下位の立場が逆ですよ。
下位が上位を待たせないのが原則です。
上位が早くに仕切りの形を完成してしまう(=備えを固める)と、下位は立っていけません。
それ以前に仕切りの3段階が書かれていますが、意外と重要なのは2のうち「腰を落として」で、そこで両者の呼吸をしっかり揃えようとすべきなんです(「しっかり」というのは、呼吸を合わせようとする場面が腰を落とすときだけではなく、各所作において意識すべきだ(=「少なくとも上記1から呼吸を合わせなければなりません」)ということですが)。つまりそこで見合うのに意味があったんですが、昭和30年代に消失して、形だけが50年代あたりに戻ってきたぐらいです。
また、一方の拳をおろすというのを合図にするというのも、本来であればおかしい話で、そうであれば両手を同時に使いたい人(今なら松鳳山、少しさかのぼって曙、さらにさかのぼって五ッ島)が仕切れません。
下位が上位を待たせるのは失礼ですので、先んじて仕切りに入るべきで、逆に白鵬が相手より後から仕切りに入ることのみは是認されるんですが(「のみ」が意外と重要)、かといって上位が傲然と下位に仕切らせて放置するのもバカバカしいことで、いくらか改善したんですけどなかなかしっかりしないのが白鵬です。
白鵬の問題は、相手を不当に待たせすぎる上に自分だけの呼吸で立つことと、ちょっと骨のある相手になると早く突っかけたがる(一定しないので信用できない)のと、後の先と頻りに言う割には全然分かっていないこと(白鵬がやっているのは仕切りに入るのが遅すぎるだけですから、実際には先の先ですね)、でしょうか。
この白鵬の問題は致命的なので、白鵬が真っ当な仕切りをしていれば稀勢の里9:白鵬1ぐらいの問題だったんですが、結局のところ稀勢の里4:白鵬6ぐらいでしょうか。
昨春の時天空戦も似たり寄ったりで、勝負の観点でいけば裏を取られる方が悪いことに変わりはないですが、仕切りを弄んでいると評することもできる白鵬にも大きな非があって、特に稀勢の里戦は白鵬の仕切りの悪さがより大きな問題であると判断します。
相撲評論家様、コメントありがとうございます。
コメントスパム防止ツールが変に働いてしまったみたいです。ご迷惑をおかけしました。
さて、コメントでご教示を頂きました点、たいへん勉強になりました。
どうも私は剣道の所作で言われていることと混同して捉えていたみたいです。私の相撲の見方が剣道を通して見ているところがありますので、こういう誤解が多いように思えるのですが、最近はそういう自覚に欠けていたように感じます。
頂いたご教示を元に色々と調べ直し、立合の理について整理した後にまとめなおしたいと思います。
白鵬については同意です。
あれだけの成績を残す横綱が”大横綱”と呼ぶのを躊躇してしまう立合を繰り返すのはなぜなのでしょう?
あと、時間前の立合といえば、六日目の松鳳山ー高安も良かったです。
明治大正期までは、声をかけて立ち上がっていたんですよね。
両者声をかけ合って立つような決まりごとになっていたんですけど、一方の力士が声を出したとき、他方の力士が声を出さずにおいて、立たないもんだと思わせといて気を抜いたところで立っていく、なんてのが明治30年代あたりにはちょこちょこあったようで、有名なのが明治42年夏と44年春の大関太刀山-横綱常陸山です。
これで太刀山が常陸山を突き出して勝っているんですけど、その太刀山にも本当は立つ気がないのに声を出して(=空声)突っかけるという相手を見下した癖があって、それにつけ入られて大錦に負けました。
声がなくなったのがいつなのかは分からないんですが…昭和10年代か20年代のようなんですね。
適当に掘り出してみると「宮城は敵(=玉錦)の立つ処を待つて無言で飛び込み(中略)宮城が頭突きかませて再び寄つたので玉土俵を割つて宮城の勝は其無言の立ち合ひと云ひ頭突をかませた処と云ひ宮城は如何にも巧者であつたが横綱と云ふだけに少し貫禄を傷けるやうである」なんてのがあります(「春場所相撲号(昭和3年)」に掲載の「昭和二年五月場所大角力戦記」。宮城山-玉錦は4日目)。
双葉山も平幕の頃はよく空声をかけていたという話が残っています。
それがなくなっちゃったのは、恐らくなんですが、仕切り制限時間が漸次短くなって、時間前に気を入れて仕切ることが殆どなくなったことによるんだろうと思います。
かつての矢声を掛け合っての立ち合いにしても、現在のように主に目で様子を見ての立ち合いにしても、気が合していなければ駄目なわけで、互いに気を高めながら合わせる(合わせている中にも相手の隙なり作戦なりを窺うわけですけど)のが仕切りなんですが、ただでさえ時間いっぱいだから立っているというに過ぎない状況下にあって、時間前から焦らしたり釣り込んだり逸らしたり威嚇したりという本筋から外れたことばかりを主眼に据えると、ああいうことになるんですよ(ましてや時間いっぱいになっても変わらないんじゃ…)。
それを最上位者もやるんですから。
単に勝つだけでも評価はされないのに、勝ったという結果にしか自己の存在意義を見出だせなくなったということなんでしょうか。
声を掛け合っての立合、初めて知りました。
今ひとつイメージが湧きませんで、一度観てみたいものですけれども、音声付き動画など残っていようもない時代でしょうからそれは望めませんね。A^^;
立合は「気が合していなければ駄目」「互いに気を高めながら合わせる」に尽きるのでしょう。
それを最上位者に望めない不幸というのは、思った以上に深刻な問題かもしれません。