剣道における正面についての考察

※旧ブログ記事の焼き直しです。

先に断りを入れておきますが、まだまだ考察途中であり、私の中で結論に達していない考察です。

私が代表を務めさせて頂いている八千代剣道教室は、八千代町総合体育館のサブコートを主たる稽古場所としております。

公共の体育館ゆえに神棚がなく、ステージのあるメインコートとは異なり、ステージなどの正面と呼べるものが無いフロアでの稽古でしたので、正面を意識せず、いわゆる三節の礼のうちの正面礼も略してきました。

おそらくは私の不幸なのでしょうが、私が剣道を始めた千葉市に今もある剣友会でも(当時は)正面礼がありませんで、中2で茨城に転居して以降在籍し続けてる八千代剣道教室は前述のとおりですし、在籍した中学校剣道部も高校剣道部も(当時は)正面礼がありませんでした。

なので、正面が確定していない稽古場所での、正面礼を略しての剣道にまったく疑問を持たないままでおりました。正面が無いのだから仕方ないじゃないか と。

しかし、ここ数年の間に色々と矛盾を感じるようになりまして、正面について考察を重ねた結果『やはり稽古場所には正面が必要だ』という結果に導かれ、今年の3月より稽古場所に正面を確定明示することにし、正面礼も実施することにしたのです。

そこに至るまでの考察について、述べてみたいと思います。


近年の少子化の影響が大ではありますが、八千代剣道教室もご多分に漏れず会員数の維持増加が目下の命題です。

新入会員が入会してくれるまでには色々な経緯があります。
クチコミ、チラシ、学校からの紹介…などなど多岐に渡りますが、どの経緯で入会に至るにせよ、稽古見学というステップが欠かせません。

そこで、剣道に対する知識が少ない見学者の視点で考えたところ、正面が無いという状況はよろしくないという結論に達しました。

例えば演劇鑑賞に行けばステージが正面にあり、観客は全員がステージに正対して演劇を観るわけですよね。

ステージ中央が正面という暗黙の了解が演者と観客の両者にあるからこそ、初めて観る劇でもスーッとその世界観に入り込むことが出来るわけですよ。

ところがウチの稽古場所は正面が確定しておらず、意識もしてませんので、上手(かみて)も下手(しもて)ない不調和な配置変化が続くことになり、只でさえ理解の難しい剣道が、より観づらい形になっている恐れがあります。

新入会員をなんとか増やして剣道教室を維持したい。という観点から、少しでも見学者に剣道を理解してもらえるよう、観やすい稽古環境が必要。
ならば正面の確定と明示が必要不可欠だ。という結論に至ったのでした。


別の例えを出しますが、和室なら床の間が、洋間なら暖炉が正面にあたり、それを軸にして人や物の配置が定まるように設計されています。

これと同様に、正面は明示されることが重要であると考えます。
道場であれば神棚。剣道大会であれば国旗と主催者の旗の掲示がそれです。

明示されてるがゆえに不文律と経験智に基づいて人の動きが誘導され、道場であれば稽古、剣道大会であれば試合運営の効率が高まるのでしょう。

八千代剣道教室では団旗を掲示することで正面を明示することにしました。


つまるところ、稽古場所の実用面で正面性の重要さに気付いたことが、正面について本気で考察するきっかけとなったわけですけれども、剣道で教示する三節の礼における正面礼は神への礼ですから、正面礼を導入するからには神についての理解も構築しておく必要があります。

冒頭で考察途中と述べたのはこの部分です。
受け取る人によってはとてもセンシティブな話になりますが、避けては通れないものでもありますので、考察は重ねていくべきでしょう。


大概の武道や武術の道場には神棚が設置されており、祀られている神様も色々なケースがあるのですけれども、剣道の道場の場合は鹿島様と香取様を祀るのがオーソドックスですね。

鹿島様=鹿島大明神=武甕槌神=タケミカヅチ=剣の神
香取様=香取大明神=経津主神=フツヌシ=武の神

これに天照大神が加わっての三神を祀る形が多いのですが、ちょいとややこしい話に脱線しかねませんので後日に譲るとしまして、ここでは道場における鹿島様と香取様の役割について述べます。


師は道場内におりますので、直接に礼することで尊敬の念を伝えられます。
剣友同士も道場内におりますので、稽古に対する感謝の念を伝えられます。

しかし、剣道は師弟と剣友同士のみで構成されるものではありません。

剣道を構成する剣の理も武の道も私たち現代人が生み出したものではなく、剣道という名が付く以前も含めた気の遠くなるような年月の中で、幾万もの先人が様々な形で積み上げることにより現代剣道があるはずです。

また、道場、竹刀、剣道具、稽古着、袴が無ければ剣道はできません。
さらに、安定した生活、稽古する時間、道場への交通手段も必要でしょう。

これら有形無形の剣道を構築する全てのモノへの尊敬と感謝の念を形で表さねばなりません。
そのための象徴が、道場の神棚に祀られている鹿島様と香取様の役割です。

なので、神前=正面への礼は宗教的な崇拝や信心を求めるものではなく、剣道に関わる全てのモノ(者・物)への尊敬と感謝の念を表す礼法に過ぎませんので、信仰する宗教宗派に関わらず、正面礼を形に表して頂ければと思います。


以上、剣道の場合に限定して神についての理解を述べましたが、日本古来……少なくとも室町時代末期のキリスト教伝来より前の時代では、日本で言うところの「神」とは先述したとおりの存在であり、キリスト教・ユダヤ教・イスラーム等の唯一神=Godとは異なります。

日本古来の神は道徳を説きませんし、信者に対する戒律もありません。
善行を施せばご利益をもたらし、悪行を行えば祟りますが、何が善行で何が悪行なのか、何がご利益で何が祟りなのかは、その本人を含む周囲の人たちが勝手にそう信じるだけのことです。

すなわち、唯一神=Godと信者の間に双方向のやり取りが密にあるのに対し、日本古来の神と信者の間は信者⇒神という一方通行のやり取りなのです。

その意味では神道や八百万神信仰は多神教とも異なると思いますが、はたして「教」の無い神道を「宗教」と呼ぶのは正しいのか?

宗教学者の間でも議論の分かれるところみたいでして、私などは不遜にも「今流行の擬人化に近いよな」などと思っておりますが、とりあえずは、

道場に祀られている神はGodじゃありませんよ
礼は尽くして頂きますが、崇拝も服従も信心も求めておりませんよ

というところだけ理解して頂ければ幸いに思います。


思ってたより長く書いてしまいましたが、私は正面および神前について上述したような理解をしております。

なので、剣道大会決勝の正面礼に対する審判長や大会会長の所作は、選手・監督・審判と同じく正面を向いて礼をするのが理に適った形ではないか…と思っております。

選手・監督・審判の正面礼を受ける形て答礼するケースが間々ありますが、その場合、おそらくは私と異なる理解があるのだろうと思いますので、ぜひお話を伺ってみたいものであります。正面とは何ぞや?と。

あ、そうそう、天覧試合での天皇陛下は正面礼を受けて答礼をなされます。
天皇陛下の名代としての皇族も含みますが、唯一の例外。

このことについて書き始めると長くなるので後日に譲ります。A^^;




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  1. Pingback: 神前と正面と正面性と | 甚之介の剣道雑記帳2

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