元首不在の日本

昨日、衆議院が解散したわけですけれども、解散詔書の読み上げ⇒万歳三唱の際にちょっとしたハプニングが生じたそうですね。

私などは、天皇陛下の署名と公印を読み表す「御名御璽」と伊吹議長が読み上げんとするところに、とくに保守系の議員達が万歳を被せてしまったところが不快に感じたものですが、本日になって色々と書かれたものを読んでみましたところ、どうやら伊吹さんにしてやられた感が湧いてきました。

と、言いますのも、解散詔書の読み上げは「御名御璽」以降を省略することが恒例化しておりまして、これまでは「…衆議院を解散する」で万歳三唱してたのですよ。

例えば前回の解散(2012年)の様子が↓こちら↓。

前々回の解散(2009年)の様子が↓こちら↓。

まー、前回も前々回も議長が議長ですからw、こっちが不敬にも省略したんだろーとお疑いになる方もおられるかと思いますが、1958年以降は省略されていたみたいです。理由は分かりませんけどね。↓1958年 益谷秀次議長による解散詔書読み上げ↓

で、伊吹議長のように御名御璽以降も読み上げた形は1955年まで。
↓1955年 松永東議長による解散詔書読み上げ↓

これを戦前生まれで衆院10期当選の大ベテランである伊吹議長が知らないわけもなく、意図して復活させたことは確実だと思うのですよ。

なぜ復活させたのか?
伊吹議長はこのように語ってます。

「解散は天皇陛下の国事行為としてなされる。御名と御璽が押されていることを私が言わなくちゃいけない。」

そのとおり。衆院の解散は詔書にもあるとおり、日本国憲法第7条により行われるものですが、その第7条では天皇の国事行為が定められており、衆院解散は第3号として含まれているのです。

首相ではなく、議長でもなく、天皇陛下の名の下に解散し、選挙を終えれば天皇陛下の名の下に国会が召集されるのですから、「御名御璽」以降が省略されてきたこれまでの形こそがおかしかったのです。それをお茶目な形で正した伊吹議長、してやったりでありましょう。


私は日本国憲法に大いなる不満を持っておりますが、この第7条も実はその1つなのです。なにが不満かと言いますと、国際社会が元首と認めている天皇陛下の元首としてのお働きを理不尽なまでに制限し、天皇は元首であると言い切れず、日本を元首不在の状態にしているのがこの第7条だからです。

元首不在という状況は、とくに外交の際に大いなるハンデとなります。

この解散後の総選挙は、おそらくはアベノミクスの是否を中心とする景気浮揚政策についての話が公約や演説の柱になるのでしょうけど、日本という一国で循環する経済ではなく、世界経済の影響をモロ被りする現状なのですから、今のような弱すぎる外交ではたとえアベノミクスが上手くいったとしても、その成果がほんの一瞬で消え去りかねません。

ただ、日本の外交の弱さというものは、それこそ江戸末期の黒船来襲の昔より綿々と続くものでありますから、せいぜい「外務省なにやっとんねん!」と毒づくことはあっても、まぁ仕方がないものと諦めてしまっている空気が日本全体を包んでいる感があります。

が、安倍首相がつい最近まで中韓両国首脳との会談すらできなかった件を思い起こしますと、日本が元首不在であることが外交上の大きなハンデになっていることが理解できるのではないでしょうか。

中韓両国の首脳はどちらも行政トップであると同時に国家元首です。
国家元首はその国の象徴でありますから、仮に中韓いずれかから日本に首脳会談の要望が公式に伝えられたとしたとき、日本がそれを断ることは国そのものの否定につながりかねず、国交断絶をも覚悟しなければなりません。

しかし、安倍首相は国家元首ではありません。
首相はその国の行政府代表に過ぎませんから、仮に安倍首相から中韓いずれかに首脳会談の要望を公式に伝えたとしたとき、中韓はそれを断っても日本そのものを否定したことにはならず、国交断絶を決意するほどの動機にはなりえないのです。

つまり、中韓両国には首脳会談を断る権利があるけれども、日本にその権利は無いということです。安倍首相は「門戸はいつでも開けている」としてますが、そんなカッコイイものではなく、日本は天岩戸よろしく待つしかないのです。

また、韓国の大統領が機会ある毎に日本を名指しに近い形で非難することを繰り返しておりますが、日本そのものを非難しているのではなく安倍首相を非難しているという形を取っているゆえに可能なことなのです。(それはそれで異常なことでありますが :-P)

仮に安倍首相が元首であるならば、そのような理屈は成立せず、韓国への国際批判は高まるでしょうし、日本が韓国と国交断絶しても仕方ないよねー的な空気が国際世論を占めるでしょうが、現実は安倍首相は元首ではないがゆえに韓国大統領の悪口雑言を許しているという状況なのです。

それほどまでに、外交儀礼上での元首は最上格とされており、首相は元首と比較すれば明々白々に格下なのですから、元首不在というハンデマッチで戦う立場の外務省に対し「外交が弱い」と批判することが少々憚れる思いがします。


ところで、日本の首相が諸外国を訪問するときは困りませんが、諸外国の元首が日本を訪れる際にお迎えする役は、外交儀礼上格下である首相では務まらないのですよ。

では誰がその役を務めるのかと言えば、それは天皇です。

日本国憲法では元首についての定めがなく、天皇は国の象徴である旨が記されているのみですが、その憲法下で定められている国事行為に制限される形で天皇は国家元首が為すべき役割を担うことになっており、来日された諸外国の元首をお迎えする役目もそれに含まれるからです。


とはいえ、元首をお迎えするのは元首であることは当たり前ですから、諸外国は天皇を日本の元首と認識しております。

そこでもし、その天皇陛下の親書を安倍首相が抱いて首脳会談に臨むならば、安倍首相は元首ではないにしても、国際的に元首と認識されている天皇陛下の名代ということになりますし、外交儀礼上も親書を拒絶したり、代理を介して親書を受領するなどということは出来ませんから会談を拒めません。ましてや、先ごろ中国の国家主席が働いたような無礼はありえません。

合衆国や共和国、社会主義国などはいざ知らず、立憲君主制など君主制の残る諸外国では世界最古の歴史を持つ日本の皇室と天皇は最上の格をもって遇されます。天皇陛下の親書は英国のエリザベス女王のそれを超えるジョーカーとなり得るもので、これを外交に活かさない手はないのです。

しかし、実際にそれをやれば「天皇の政治利用」だと批判を浴びてしまいます。その理由は、日本国憲法第7条で定められた天皇の国事行為に含まれないからなのですが、果たしてその批判は正しいのでしょうか?


私は、上で挙げたような外交上の不利益を避けるため、また、国家として当たり前の形態を整えるためにも、憲法を改正して日本の元首を明確に定めた上で、その国事行為には外交面での役割を含めるべきだと思ってます。

明確に元首を定めるにあたっては、首相の直接選挙制による元首化、あるいは大統領制の施行という対案が予想されますけれども、やはり天皇を元首とするべきだと考えます。

鎌倉幕府の開府以降、一部例外期間を除き、天皇は行政や立法と離れてシンボリックな存在であり続けてきました。実に九百余年の歴史です。

一部例外期間は後醍醐親政に(私は異論ありですが)明治・大正・昭和戦前を含めるにしても、九百余年の歴史の中では1割も満たしません。

いわゆる「君臨すれども統治せず」の形で天皇を元首に擁する形態が、日本の風土とお国柄に最適であるがゆえの九百余年の歴史だと思いますし、天皇の戦争責任の是否、非民主的である、天皇および皇族の人権問題、といった諸々の批判は、その重厚な歴史を覆す動機としては弱すぎます。

加えて、その重厚な歴史が外交上優位に働くことは明白であるときましては、天皇以外の元首という選択肢はありえないでしょう。


言いたいことをまとめますと、天皇を明確に元首として擁することが、日本外交最大の弱点の1つである元首不在というハンデを消し去り、したたかでより安定した外交を可能とするための始めの一歩だということです。

衆院選では経済問題を主題にすること結構なのですが、ぜひ憲法に関する議論も拝聴したいと願っております。


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