成文法だけがルールじゃないよ

日馬富士による貴ノ岩暴行事件に付随する形で、白鵬の立合に対する批判がクローズアップされてます。
でも、暴行事件は土俵外のこと。立合問題は土俵上のこと。


暴行事件に関する不明点や疑問点が今なお残る中、まったくの別問題である立合問題を重ねることの不毛を苦々しく見ておりましたが、それに日本相撲協会の危機管理委員や横綱審議委員が燃料投下するという愚行を耳にし、黙っていられなくなりました。

そんなわけで重ねて言いますが、暴行事件は土俵外のこと、立合と取口は土俵上のこと、まったくの別問題です。
そして、どちらも白鵬が深く関わっているからといって、重ね餅にして食べ切れるような分量の問題ではないのです。

これをきっちり分けて究明と考察を重ねることが、問題解決への近道となるでしょう。

拙ブログにおける大相撲タグの過去記事をご覧になればお分かりのとおり、私はこれまで白鵬の立合について批判を重ねてきましたけれども、白鵬個人の責任より、日本相撲協会の責任の方が大であると考えてます。

ゆえに、今このタイミングで立合問題について持論を述べることはしません。

正直に言えば、暴行問題と分別することを宣言した上で、立合問題についての見解と持論を述べたい気持ちに駆られたのですが、それによって暴行問題における白鵬批判を助長してしまうのも、立合問題が白鵬個人の問題に帰結してしまうことも、いずれも本意ではないので自重した次第です。


ただ、ひとつだけ述べておきたい。
白鵬を盛んに擁護する方々の中に「ルール違反ではないのに…」という論調が少なからず見受けられるのですが、擁護論としては悪手であると申し述べておきます。

大相撲から武道や神事という観点を差し引き、純粋にスポーツとして考えるにしても、「ルールに反しない範囲であれば何をしてもよい」と考えるならば、スポーツについて不見識であると言わざるを得ません。

どのスポーツにも不文律というものがあります。
明文化されたルールが軸となることは言うまでもありませんが、それを補足する不文律、あるいは明文化するまでもない伝統に裏打ちされた不文律が、無数にあるのです。

野球のようにルールブックが分厚い冊子になるほどに細やかな規則で設計されているスポーツにさえ不文律は少なからず存在しますし、私の守備範囲である剣道などは白色家電の取説より薄い試合審判規則の下、多々ある不文律によって試合競技が成立していると言ってよい状況です。
(まー、これはこれで問題ではあるのだけれども…)

各スポーツに占める明文化されたルールと不文律の比重は異なるでしょうが、不文律の無いスポーツなど無いと断言できます。

その不文律を、ルールに明記されてないのだからと、そのスポーツの第一人者たるものが蔑にするならば、批判されるのは当然です。

このことは一般社会にも国際社会にも言えます。
はい、成文法と不文法の話になります。

成文法のみで善悪が裁けるならば、裁判所の仕事も簡単ですよね。
しかし、現実には時代の流れに成文法がなかなか追い付かないというのが世の常であり、それを慣習・条理・判例といった不文法が補っています。

一流企業や著名人が、裁判に至らなければ罪にはならないとばかりに不文法を蔑にしたり、不文法には至らないマナーであるとか、社会貢献であるとかを無視したならば、大いに批判されますよね?


社会において法律が万能ではないのと同じく、スポーツにおいてもルールは万能ではないのです。

ただ、スポーツの場合は、不文律が守られなくなったとき、その不文律についての今後の取り扱いを協議し、協議結果を明文化する作業が一般社会のそれより迅速かつ的確なので、スポーツのルールが万能なものだと錯覚されるのかもしれませんね。

また、同じ格闘技系競技の住人として言わせてもらうと、格闘技系競技は不文律を明文化して高度スポーツ化を図れば図るほど、その競技の文化性とでも言うべき魅力ある「味わい」が損なわれるので、不文律の明文化には総じて慎重です。

ゆえに、日本相撲協会の指導力が問われる……と、熱が入ってきたところで止めておきます。今はそのタイミングではないのでね。

重ねて述べますが、白鵬を擁護するにしても「ルール違反ではないのに…」は悪手。
もっと他の角度から擁護論を述べるべきと、お節介を承知の上で申し上げた次第です。


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