横綱の立合

夏場所総括その2。優勝した白鵬評から。

夏場所で全勝優勝というパーフェクトな結果を出した白鵬。
しかしながら、その白鵬に対する私の評価はかなり限定的なものになります。

評価できるポイントは、あれだけガタガタだった心身を建て直したこと、15日間を完走するためのペース配分、そして勝つことに対する執念。
いずれも抜群でしたので、この3点に限っては高評価せねばなりません。

しかしながら、白鵬は横綱。それも在位10年を誇る大横綱です。
それを考慮に入れますと、不誠実な立合と狼藉にも等しい振る舞の数々は、先に挙げた評価ポイントが霧散しかねないマイナス評価ポイントと言えます。

角界の頂点に立つ横綱は全力士の規範でありますから、その影響が強く伝播する旨、前記事にて書きました。
ここでは横綱の立合について述べてみたいと思います。

横綱に対する立合の際は、格下の力士が先に手を着くことが不文律です。
また、格下の力士が横綱を張る、あるいは変化するということも、過去に例が無いわけでもありませんが、それをさせない空気が土俵を支配しております。

なぜそのような不文律が存在するのか?
それについては諸説ありますけれども、私は興業的な理由によるものではないかと思っております。

相撲自体は「土俵の外に出るか、足の裏以外の部分が地に着くかしたら負け」という単純な競技ですから、勝つことが目的であるならば、その方法もまた単純であるものが最良ということになります。

つまりは、相手に力を出させず、なるべく短時間のうちに勝負を付けることが戦略として最良であり、その最たるものが立合で変化する注文相撲です。

けれども、大相撲は興業であり、力の奉納という神事でもあります。
素人目には何が起きたか分からない瞬殺の相撲では観客の熱狂は得られませんし、策略と策略が交錯するような立合を奉納するのでは神に対してあまりに不敬です。

そこで、先述したような不文律の縛りをかけ、格下力士には横綱の呼吸での立合を、横綱には格下力士を真正面から受け止める横綱相撲を強いることによって、観客が大いに盛り上がる攻防のある相撲や、これ以上なく神への奉納に相応しい合気の立合、といったものが出現しやすい環境にしているのではないかと。

かなり乱雑な理解ですが、そう考えると道理が通るのです。おそらくはさほど間違いではない理解だと思っております。

で、夏場所の白鵬は(や、ここ数年の白鵬かな)と言いますと、格下力士が横綱の呼吸で立とうとしているのにそれをはぐらかし、張るのは当たり前で、手の平ブラインドからのエルボースマッシュ(ex.栃煌山戦)から変化(ex.高安戦)まで駆使し、ただひたすら白星を積み上げることのみに邁進しました。

格下力士に角界の不文律を厳守させておきながら(事実、玉鷲戦のように相手が自分の意に沿わない立合を図ろうものならあからさまに不満と憤りを表します)、自らは真正面から受け止める横綱相撲など全く履行せず、相手力士の裏をかくことのみに腐心する取口に専念しての全勝優勝でした。私は評価しかねますね。

願わくば、名古屋場所以降で復活するであろう稀勢の里が、白鵬に対抗せんがために、白鵬と同じダークサイドに落ちないことを祈ります。

あ、白鵬評で時間切れ。また明日。A^^;




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