フェイント論
先の日曜日は八千代大会参加申込書からのデータ起こしに費やしまして、お声かけを頂いていたA道場さんの稽古会には間に合わなかったのですが、せっかくお声かけ頂いたのにシカトでは失礼でありますから、第二道場の途中から参加しました。
※剣道スラング解説:第二道場=稽古後の飲み会
尿酸値コントロール中の私はノンアル参加。
本来は酒好きな私ですのでノンアル参加は拷問にも等しい苦行なのですけれども、A道場さんの第二道場は示唆に富む話がポンと出るので毎度得るところが大きく、お声がかかる限りはなるべく参加することにしております。
(あ、稽古の方もです、はい A^^;)
飲ん兵衛は忘れているかもしれない数々のお題の中で、フェイント論は実に考えさせられました。議論の経緯は忘却してしまいましたが私なりの理解を書いてみたいと思います。
剣道では”虚実”という言葉で打突の機微を表すことが多いですよね。
相手を観察したとき、打突を狙う気迫に満ちている状態を”実”とするなら、心の内に驚懼疑惑が生じ居着いている状態は”虚”です。
また、己が繰り出す打突は、一本を取らんとする渾身の打突を”実”とするなら、それを装うことで相手を偽らんとするフェイントは”虚”です。
※「虚」=きょ、「実」=じつ <剣道クラスタ以外の皆様へ
つまり、フェイントとは一本を取りにいく渾身の打突を装うことによって、こちらが有利となる相手の反応動作を引き出し、そこを打つためのものです。
で、虚実論で言うところ、大きく分けて4つのケースにより1本を得るのですが、
1)己の実をもって相手の実を攻めて相手の実を打つ
2)己の実をもって相手の実を崩して相手の虚を打つ
3)己の虚をもって相手の実を崩して相手の虚を打つ
4)己の虚をもって相手の虚を誘って相手の虚を打つ
上記は1本という価値判断の上では等価です。
しかし、武芸としての難易度や、剣道を人間形成の道とする視点から考えますと、上記1のケースが最上位の価値を有し、わずかに次点が上記2。グンと下がって上記3、上記4が最下位の価値となります。
上記3と4における「己の虚」を指す際に、侮蔑的揶揄を込めて”フェイント”という言葉が使用されるのは、この価値観によるものだと言えます。
で、館長先生の提議を私なりの解釈で意訳しますと、以下のようになります。
上記3や4のケース、あるいは上記2のケースでさえも「あんなのはフェイントじゃねーか」と揶揄される場合と「参りました」と心服する場合があるけれども、その境目はどこにあると思う?
聞かれた私らは思考停止を余儀なくされて考え込んでしまいましたが、館長先生はこちらの困り顔を見てニヤリと笑いながら「人格だ」と一言。
聞いていたうちの一人が拗ね気味に「じゃあ俺の(技)はみんなフェイントっすか?」と聞くのに対して館長先生「や、お前のはフェイントじゃないよ」との答えでなおも困惑したのですけど、んー……いま考えるとあれは最大級の褒め言葉だったのだなーと思うのですね。
まず、剣道を歩む以上は「己の実をもって相手の実を崩して相手の虚を打つ」稽古を心掛け、ときには蛮勇を承知の上の捨て身で「己の実をもって相手の実を攻めて相手の実を打つ」ような稽古を重ねることによって、初めてお互いを高める結果を得られます。
対して、お互いを高めるべき稽古の場において「己の虚をもって相手の実を崩して相手の虚を打つ」あるいは「己の虚をもって相手の虚を誘って相手の虚を打つ」ようなことばかりしていては、”フェイント”との侮蔑的揶揄は免れません。
(どうも稽古会でこれをやった若手が館長先生の逆鱗に触れたらしい A^^;)
しかし、稽古相手とお互いに高め合ったり全力をぶつけ合ったりするための信頼関係が築かれてさえいれば、繰り出す打突の全ては「虚もまた実」であり、けして”フェイント”などとは言われないのですよね。
これがフェイントか否かの境目だというのが私なりの答えなのですが、さーて正解かどうか。また良い感じに酒がまわったあたりで議論にしたいと思います。
~関係者だけに贈る蛇足的追伸~
紫雲先生がですね、館長先生との稽古で「己の実をもって相手の実を攻めて相手の実を打つ」のメンで1本取ったらしいのですよ。
ただ、そういうときに限って目撃者が誰もいないという素晴らしいオチに拍手。 (*゚▽゚ノノ゙☆パチパチ
まーいいじゃないですか紫雲先生、館長先生は認めていらっしゃるのだし。A^^;