好機を掴めない人の傾向
剣道ネタであり、相撲ネタであり、雑談でもあります。
稀勢の里は好機を掴めない人の典型とされております。
私個人的に思いますところ、好機を掴めずして幕内力士となり、ましてや大関になるというのはどういうことなのだ? と疑問に思っているのですが、ここ数代の横綱がワンチャンスをものにして横綱昇進を果たしていることとの比較論としては、好機を掴めない人と言われても仕方ない状況ではあります。
さて、稀勢の里に代表される好機を掴めない人の傾向としまして、好機を掴もうとする本能が強過ぎるということが挙げられるように思うのです。
掴む、すなわち握るという動作には、腕を硬直させる作用が同時に働きます。
剣道の場合は竹刀を握るわけですが、握る力が強過ぎますと、腕が硬直してしまって竹刀を振った際の剣先のスピードが得られませんし、腕が伸びないので相手近くの間合に入る危険を犯さないと打てません。その結果、打突の好機を捉えにくくなるので、なかなか1本を取れません。
竹刀を構えているときの竹刀を握る力は必要最小限に抑え、打突の好機を察知するや軽快に竹刀を振り、腕をグンと伸ばし、竹刀がメンなどを捉えるインパクトの瞬間にリストを利かす、それと同時に握力を増して強かに打つ!というのが理想です。
しかしながら、好機と見るやそれを掴もうとする力が働くのは本能的なものであり、それを封じてまず腕を伸ばし、好機に手が届く瞬間に掴むというのは意外にもなかなか難しい業なのです。
ましてや稀勢の里のように十年単位で日本中の期待を寄せられ続けられては、好機を前にして硬直するのも致し方ないでしょう。
根性論にならない程度に抑えますけれども、故郷が豊かとは言えないモンゴル勢が総じてチャンスに強いのは、故郷に好機そのものが少なくハングリーであるがゆえに、少ない好機を見つけるや、まず誰よりも先に腕を精一杯に伸ばし、好機に手が届くやガッチリ握るということの繰り返しを経て、大相撲の土俵に立っているからでしょうね。
親方や故郷の名士の目に留まるようなアピールをし、日本行きのキップを争い、各部屋1名までとされている入門枠や、数少ない本格的な相撲部のある高校の留学生枠を争い、そういった競争に勝ち続けてきた者だけが大相撲の土俵に立っているのですから、どうすれば好機を掴めるかは経験が血肉となって体に染み込んでます。
では、ハングリーな環境に置かれようもない日本の力士は好機を掴めないままなのかと問うならば、そんなことはありません。好機の掴み方は確立しておりますので、それを実体験で得ることと理論で得ることの相違があるだけの話です。
理論を体現するには稽古という名のシミュレートの繰り返しが必要なので、時間がかかります。応援する側がわきまえるべきことは、それを責めることなく、稽古を観て褒めるべきは褒め、力士のじんわりとした成長を共に喜ぶことです。
その点で稀勢の里を応援し続けている人達は立派。その姿勢が、今場所やっと報われようとしております。千秋楽、喜びをともに分かち合いましょう。