教員個人を責めるのは如何なものかと

高校担任が息子の入学式で欠席することの是非が話題になってますね。

担任、息子の入学式へ…高校教諭勤務先を欠席、教育長が異例の注意(埼玉新聞)

高校生の立場であるなら特段に問題視しないと思います。
担任のなすべきことは全て副担任が滞りなく務めていることでしょうし、担任とは翌登校日に会えるわけですから。

ただし、保護者の立場からすると、入学式で自分の子の学級担任が不在、つまりは担任の顔も分らないというのでは不安を覚えますので、とても不満に感じるでしょう。

また、こちらも年度初めの忙しい時期に仕事を調整して休みを取り、正装して入学式に臨んでいるわけですよ。
なのに学校側は我が子の担任となる教師が不在というのでは、いささか無礼にも思えます。

が、しかし、担任教師が我が子の入学式に出席したいとする気持ちは同じ親として理解できますから、その不満や無礼に対する批判の矛先は担任教師個人には向けられません。

そもそもの原因は、新1年生の担任に新1年生の子供のいる教師を担任にしたことにあります。
責めを負うべきは学校という組織の責任者である学校長でありましょう。

なのに、これを報じた記事を代表とする少なからぬ世論が入学式を欠席した担任教師を批判する様子に見受けられます。どういうことなのでしょう?

この程度の配慮もなく校内人事が行われるというケースが実は普遍的に存在し、新1年生の担任をしているがゆえに我が子の入学式に出席できない教師や、小6/中3/高3の担任をしているがゆえに我が子の卒業式に出席できない教師が珍しくなく、その場合は職場である学校行事を優先するものだとする慣習が根付いているなら、教員というのは随分と前近代的な職場なんだなぁと驚くほかないのですが。


さて、私の場合ですが、高校教育までは親の責務だと思っていますから、高校までの入学式、卒業式は可能な限り出席することにしております。

今年は次男の中学校卒業式と高校入学式、娘の小学校卒業式と中学校入学式と忙しい春でしたが、仕事のスケジュールを調整して全て出席しました。

これ、子供のためではありません。
カミさんが夫婦での出席を望んでのものでもありません。
あくまでも自分のためであり、自分の意志によるものです。

親という字は木の上に立って見ると書きますが、親としてそうありたいだけ。
自己満足? そうかもしれません。

我が家は3人の子宝に恵まれましたので、賑やかな毎日を過ごしている反面、子供1人1人を見つめる時間はとても限られているのですよ。

その限られた時間の中でも、子の入学式や卒業式は格別の時間なのです。
我が子を見つめ、成長を感じる喜びが、明日へのパワーの源泉になります。
とても貴重な時間であり、仕事を休む価値は十分すぎるほど感じます。

そういう価値観を持つがゆえに、件の担任教師を責める気にはなれず、むしろ擁護したいとさえ思うのですよ。

入学式や卒業式に出席する意義を感じるか否かは人それぞれでしょうが、出席したい人が出席できる世の中であってほしいなぁと切に願うところです。




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