道か?路か?
道と路、どちらも「みち」と読み、合わせて「道路」なんて言葉になりますが、この2つの違いって理解ります?
理解る=わかる ってのは故・立川談志お家元がよく使ってた表現ですが、辞書引けば判る、ググれば分かる、そんな意味ではなくて、経験知や世間知として理解してござんすか?という意味ですけれども。
私なりの言葉で言いますと、路(みち)ってのは、限定的で終わりのあるものなんですよ。
例えば「袋小路」。あれの行き着く先は行き止まり。
「迷路」なんてのも入口があって出口という終わりがあるもの。
これに対して、道(みち)ってのは、永続的で終わりのないものなんですよ。
「踏み出せばその一歩が道となり その一足が道となる」なんてのが有名ですけれども、まさしくその通りでありまして。
道を拓いた人が倒れても、その人が歩んだ道を後進が引き継げば道は永続するのですよ。それを伝統ともいいますけれども。
また実際の例として、国道という道も、ある2地点を除きますけれども、国道の終点は別の国道の始点となっており、どこまでも続くのです。
ある2地点とは?
1つは日本の道路網の起点である日本橋。これはお分かりかと。
もう1つはですね、なんと伊勢神宮の内宮前なのですよ。
すなわち天照大御神のお膝元へと連なる道なのでありまして、人間の分際ではこのとおり終点なのでありますが、
神の御世へと連なることによって永続性が保たれているのです。
さてさて、オリンピックであるとか全日本であるとかは、たしかに素晴らしい桧舞台であり、そこで優勝するなんてことは技量抜群、力量抜群、そして心法抜群でなければ成し遂げられないでしょう。
が、オリンピックは「道」でありましょうか?
全日本は「道」でありましょうか?
開会があって閉会がある、終わりあるもの=「路」なんですよ。
これを競技者自身の武の道に連ねることができたなら、「路」は「道」となるわけですけれども、そこで完結してしまっては「道」ならず「路」のまま。
「道」は極められないから「道」なので、武道を極めるなんて言葉自体が成り立ちません。
ましてや「路」は「道」の一部分でしかないのですから、どれだけ大会成績抜群であろうとも、武道を極めた証拠にはなりません。
そう考えますと、「俺ァ昔、剣道が強かった」みたいなのは滑稽でしょ?
その道は途絶えているのだから、剣道じゃなくて剣路なのですよ。
残念なことに、どんなに立派に道を歩んできたとしても、道を踏み外すことは有り得るのです。
人間というものは、間違いを犯すからこそ人間なのだから。そして、踏み外した瞬間に「道」は「路」へと転じてしまう。
武道というものは、人生という道を歩む自分の足元を照らしてくれる提灯のようなものでして、この提灯を持ってますと、持たない人よりは人の道を外しにくいのですよ。
私などは人生を見通す目が利かないものですから、便利重宝にしております。
でもね、どんなに良い提灯でも差し出してる手を緩めれば明後日の方向を照らすし、提灯を見つめすぎて目がくらむことだってありますよ。
そんなときに魔が差すと、どんなに立派な武道という提灯を持っていても簡単に人の道から外れて転落する。そんなもんなのでしょうね。
ま、道を踏み外して転落したなら、這い上がってでも道に戻ればいい。
その汚れた姿を他人は疎んじるだろうし、罵声すら浴びせるだろうけれども、それは自業自得というもの、甘んじて受けりゃあいいのです。
と、言葉で言うのは簡単だけど、なかなかの苦行でありましょうね。
転落したときに周囲にいた者ァ大なり小なり責任があるのだろうから、道に戻ろうとしているならば、救いの手を差し出してやってくださいな。
以上、剣路ではなく剣道を歩んでいるつもりの私による愚考でありました。