師の格を持つ者が審判を務めることの意味
うん、お察しのとおり、白鵬の一件が、メチャクチャに忙しい中にこの記事を書きたくなった動機なのでありますが、白鵬批判はここに含めません。
それはいつも日和見な横審はじめ、多方面から白鵬および宮城野部屋ならびに日本相撲協会に寄せられてますから、それに乗じるのも野暮かなぁと思いまして。
それよりは、大相撲は勝負審判を親方が務める、私の守備範囲である剣道は試合審判を高段位の者が務める、つまりはお題に挙げたように、師の格を持つ者が審判を務めるという点で共通しておりますので、そのことの意味を語るのも一興でありましょう。
あ、いつもの逃げ口上になりますが、勉強不足かつ修行途上の私による私論でありますので、鵜呑み厳禁でお願いします。
剣道の場合はですね、試合は競技であることの前に、読んで字のごとしで「試し合い」なのですね。日頃の稽古により培われた力と技と心がどれほどのものなのかを試し合うということで、もちろん試合する以上は勝利を目指しますが、勝敗という結果や勝利することによる名誉や賞賛はその後に付いてくるものです。
つまり試合も剣道理念で言うところの「剣の理の修錬」の一貫でありますから、審判はジャッジマンという性格はもちろん有するものの、指導者としての立場も有するという点が、一般的なスポーツとは若干異なるのであります。
というわけで、剣道の審判は審判であると同時に師匠であり、選手は選手であると同時に弟子でありますから、審判(師匠)の判定(教え)に選手(弟子)が異を唱えるならば退場(破門)も覚悟しなければなりません。
では、剣道の試合における判定に対して異議申し立てが全く認められないのかと言えばそうではありませんで、その場合は監督、つまりは選手の師匠が判定についての”確認”を求めることができます。審判と監督は同じ師の格を持つ者同士でありますので理に適っておりますし、あくまでも”確認”であって抗議や批難、ましてや罵詈雑言を浴びせるようなことは許されません。
このことによる弊害が無いわけではありません。
剣道の段位と審判技量は別物ですから、剣技が抜群であったり、剣理に精通されている立派な剣士なのに、なぜ審判が下手なんだろう?(まー、審判講習会に参加しないからなんですけど A^^;)という方が審判を務めることで、剣道に対する失望が拡がるという点などはその最たるものでありましょう。
しかし、剣道における試合の位置付けがテッペンではなく、あくまでも「剣の理の修錬」の一貫であるとするならば、選手自身が信奉する剣の理と異なる見解を持つ審判の下での試合は厳しい修錬となり、心構え一つで自分を高めてくれるものに転じます。公平公正な判定を求める前にやらねばならないことは沢山あると思うのです。
さて、大相撲に目を移しますと、行司はともかく土俵下で相撲を見つめる5人の勝負審判は、審判であると同時に親方=師の格を持つ者なのですね。そして力士は弟子でありますから剣道の試合と同じ構図、力士は勝負審判の判定に異を唱えてはならないのです。
もし、それでもガマンならない理不尽な判定に感じたならば、それは自らの師匠を通して異議申し立てを行うのが筋というものです。
ましてや大相撲は親方、横綱、大関、関脇、小結、幕内力士、十両、幕下、三段目、序二段、序の口、新弟子と、それぞれに格が与えられ、その格に義務付けられた役割を全うすることで成り立っている世界なのですから、それを力士側ヒエラルキーの頂点に立つ横綱がそれを壊しかねない言動を重ねるというのは・・・
おっと、白鵬批判になる前に筆を置きます。
まー、あの相撲は同体取直しという判定が妥当でありますよ。相撲内容は白鵬にあったけれども、あれを取直しせずに行司軍配どおりとしたら「白鵬贔屓が過ぎる」という声が少なからず上がったことでしょう。
又相撲を見るのが嫌になってきたところでした。
僕の言いたかった事そのままです。
甚之介さん、ありがとうございました。
Starship & Sunさん、コメントありがとうございます。
超遅レスで申し訳ありません。
白鵬、いったいどうしちゃったのでしょうね?