白鵬の行為をダメとする理由
あ、タイトルからいらっしゃった相撲部の皆様には申し訳ありませんが、休場中の私ですので相撲ネタではなく、あくまでも剣道ネタであります。
剣道教室の木曜日の稽古前に「君らはあれをやっちゃいけないよ」という説話をしたので、当記事はそのまとめ。
なので、小学生への語り口調になってます。ご了承ください。
新聞やテレビのニュースで取り上げられたので知っている人もいると思うけど、横綱の白鵬が嘉風に寄り切られて土俵に落ち、立ち上がるや手を挙げて物言いを付けたという話が話題になってます。
物言いってのは、大相撲で行司の判定に疑問がある場合、土俵下にいる5人の審判または4人の控え力士が手を挙げ、5人の審判による協議を求めることを指す言葉なのだけど、私も長いこと相撲を観てきたけれども、相撲を取った当人が物言いを付けるなんてことは観たことがないし、しかもそれを、大横綱と称されるほどの実績を誇る横綱の白鵬関がやったもんだから、大きなニュースになっているのですよね。
ただ、剣道をやっている私らは、単に「白鵬ダメじゃん」で済ませてはいけません。
私も年間で100を軽く超える試合数の審判をしてますが、剣道の試合で白鵬がした行為と同じようなことをする選手はチラホラおりますよ。
まぁさすがに、白鵬関と同じく手を挙げたりするような選手こそおりませんが、周囲を見渡す、開始線になかなか戻らない、打突の有効性を執拗にアピールする、といったような、判定に対する不服を態度で表す選手はどの大会でも数人はおります。恥ずかしいことですが、全日本剣道選手権でさえもいましたよね。
程度の差はあるけれども、これって白鵬関のしたことと同じですよね。
そんな人たちやその指導者たちは、白鵬関のことを批判する資格などありません。
君らがそんなことしないのは知っているけれども「白鵬ダメじゃん」ではなく、「天下の大横綱でもあのような間違いをするのだから、自分も気を付けよう」と思ってもらいたくて、こんな話をしています。
ここまで大丈夫ですか?
でも、たしかに審判も判定を間違えることがあります。
それに対して文句も言えないし不満に思ってもいけないのか? と思うのは自然な感情だと私も思います。
けれども、試合する選手同士で常に正しい判定ができるのかといえば、そんなの無理です。
剣道を含む全ての格闘技は戦う中で平常心を求められますけれども、「求められる」ってことは、普通にはできないことなのですよね。
戦う中でも平常心を常に保つというのは目指すべき理想ではありますが、達人の域になって得られるか得られないかというレベルの永遠の目標なのです。
その平常心なしに正しい判定は不可能。ましてや自分に不利となる判定も正しく判定することは難しいでしょう。
だから選手は審判という他人に判定を委ねなければならないのです。
これは格闘技系競技のほぼ全てに共通することであり、審判に判定を委ねることができない、審判の判定を尊重できない、そんな人は格闘技系競技で試合をする資格が無いのです。
加えて、剣道の試合は人として成長するための場でもありますから、勝つことにより自信を得、負けたことから何かを学ばねばなりません。
なので「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」「打って反省、打たれて感謝」などと言われますが、負けた原因を審判の判定に求めてしまっては得るものなど何もありません。
たとえ判定が誤りであっても、その原因を、まず自分に求める。
それくらいの姿勢でない限り、人としての成長は望めないでしょう。
試合に出る以上、勝利を求めるのは当然ですけれども、勝敗に拘りすぎると剣道の本質を忘れてしまいます。
みんなも、そして私も、白鵬関と同じ過ちをしないように気をつけましょう。
話が長くなりました。
では、今日も稽古を頑張りましょう。
未だ木鶏に足りえず
というのは難しいのですねぇ…
勝負ではなく殺し合いなら
結果が全てですけど、
お相撲は健全な競技であり、
格闘技だと思うのですが…。
手を挙げってのポースが、
「ビール瓶持ってこい」って
ネットで揶揄されちゃう位ですからね。
双葉山の山の頂を
白い鵬は飛び越えられないようです。
kanimimiさん、コメントありがとうございます。
> 双葉山の山の頂を
> 白い鵬は飛び越えられないようです。
おー、うまいことをおっしゃる。(後でパクろうw)
その双葉山でさえ到達できなかった木鶏の域は、やはり永遠の目標なのです。
白鵬とて修行中の身。反省してくれたら良いのですけど、まぁその、ね。