高校卒業式に思ったこと

先週1日は次男の高校卒業式でした。
今週10日は娘の中学校卒業式です。
来月4月には娘の高校入学式がある予定です。

長男・次男・娘の幼小中高の入学式と卒業式は必ず夫婦そろって出席してきました。娘の高校卒業式まで欠かさずに全うする意向でおります。

でも正直な話、世間が年度替わりでバタバタしているこの時期に計3日も休暇を取るのは、休出どころか残業も儘ならない昨今ですからキツイものがあります。

それでも出席しますのは、我が子が入学式という起点、卒業式という終点を通過する際の儀礼に立合うことは、木の上に立って見ると書く「親」として為すべきことだと思うからです。

入学式も卒業式も、道しるべとしての役割こそが本来のもの。
つまりは起点あるいは終点として、より明確であることが求められますから、そのためにはシンプルかつ厳粛で短時間に凝縮されたものであるべきだと思います。

我が子の視点に立てば、父が仕事を理由に欠席して母1人が出席するよりも、正装した両親がともに出席した方が、より厳粛なものに映るでしょう。

そのことが学校生活の起点あるいは終点の明確化にどの程度貢献するかは我が子=当人次第でありましょうが、親として為すべきことは必ず為すという姿勢を見せることが親子の信頼関係を保つ一助となり、それだけでも得るところは少なからぬものがあると考えてます。

また、今のところの予定では定年まで卒業もない私にとって、我が子の入学式や卒業式というのは得難いマイルストーンであり、仕事に対するモチベーションを得るためにも入学式や卒業式に出席することは重要なのです。


その意味で、2年前の長男の高校卒業式、今年の次男の高校卒業式は、実にフォーマルな形式でとても良かったです。

会場では「高校の卒業式はつまらない」との声もちらほら聞こえましたが、それで良いのです。感動は道しるべを越えることにあり、道しるべそのものに感動は不要。もっと儀式と儀礼に徹してもよいくらいです。

来賓祝辞、学校長訓示、送辞、答辞、いずれも冗長に感じます。
オリジナリティなど無用で、実直な言葉で飾ることなく述べられた方が、卒業生が自身の今の心境を投影できるでしょう。

究極の理想は「わしが男塾塾長・江田島平八である!」の一喝ではないかと。
冗談はさておき、短き言葉に万感の思いを込めるというのは日本の文化にも合致しますし、卒業生の記憶に半言一句でも残すためにも簡潔明瞭であってほしいと願ってます。

私はこのような考え方をしておりますので、小中学校での卒業式におけるリレー形式の送辞&答辞、仰げば尊しの代わりに春っぽい流行歌を唄う、といったものはいかがなものかなぁと思ってます。

これらは今に始まったことではなく、私らアラフィフが小中学生だった30~40年前から存在していたものです。当時は何ら思うところは無かったのですが、親の立場からあらためて考えますと、うーん、よろしくないなぁと思うのです。

マスゲームよろしく全体練習に練習を重ねてお披露目される送辞&答辞は誰のため?

仰げば尊しと同等かよりシンプルな歌なら代替としてもよいけれど、代替とされる歌のほとんどは華美で多弁で思い浮かぶ光景の限定されるものばかりで、フォーマルであるべき卒業式がカジュアル化してしまいます。

儀式と儀礼に終始することがどうしても不満であるならば、卒業式の後に謝恩会でも設け、フリースタイルでやればよろしいかと。唄いたい歌を唄えますし、なんならカラオケを用意したって良いのではないでしょうか。

その好例として結婚式と披露宴が挙げられます。
結婚式は儀式として厳粛に。披露宴は祝意を込めて華やかに。

しかし、式と宴は明確に分けるべきところを、式に宴の要素を持ち込んでは結婚の宣誓も台無しになりかねません。
これと同じことが、卒業式や入学式にも当てはまるでしょう。


まぁ私個人の憂慮が、ブログに書いたからといって世間に届くとも思いませんし、少なくとも娘が高校を卒業する3年後までに良くなることも悪くなることもないでしょうから、雑談のネタに過ぎないのですけどね。

なお、高校を卒業したら一個の独立した大人として扱いますので、大学の入学・卒業に関するイベントの類は必要最小限の参加に留めてます。


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