変化と張り差しを忌み嫌う理由

大相撲秋場所が千秋楽を迎えました。
本来であれば場所を振り返りつつ贔屓力士の講評を述べるところですが…

十四日目の稀勢の里-鶴竜戦における鶴竜の変化。実に残念でありました。
そして稀勢の里を贔屓する者としての視点では、あー、またか、と思わせる光景でした。

その光景とは、把瑠都が初優勝した場所での稀勢の里-把瑠都戦であり、日馬富士が初優勝した場所での稀勢の里-日馬富士戦であり、新入幕場所でありながら大関初挑戦となった逸ノ城と稀勢の里の取組であり、今年の春場所の白鵬-稀勢の里戦であり、3年前の名古屋場所での白鵬-稀勢の里戦であり……つまるところ、見慣れた光景ではあるのです。

あー、こう並べてみると、稀勢の里に立合変化で勝つと優勝確率が高まる感じがする。優勝争いの渦中にある力士にとって、対稀勢の里戦の立合で変化を選択するというのは「縁起もの」「ゲン担ぎ」なのかもしれない。:-P

冗談はさておき、稀勢の里があまりにも立合変化を食らいすぎているという批判は否めないものがあります。今場所の鶴竜戦などは、踏み留まった上に逆襲の寄りで土俵際まで追い詰めたわけですから褒めてやってもよいと思うくらい、変化にパターンと落ちるばかりの稀勢の里にも非はあります。

が、しかし、それでも私は立合変化を忌み嫌います。

私は、相撲における立合という競技開始方法を、世界でも唯一無二と言えるくらい希少なものであり、相撲の美点の根幹だと思ってます。

柔道、剣道、レスリングといったほとんど全ての格闘技系スポーツの競技開始は審判等の第三者に委ねられてますが、相撲の立合は対戦する力士双方の合意(=合気)をもって成立するものであり、そこに第三者は介入しません。
これは、興業として成立している格闘技系プロスポーツでは大相撲が唯一採用している競技開始方法であり、格闘技でありながら対戦する者同士が信頼の置けない敵対関係にあるのではなく、お互いにリスペクトしている関係でないと成立し得ないものです。できることならば、剣道もそうありたい。と、思うほどに美しくも神々しい競技開始方法、それが立合なのです。

しかし、立合変化というものは、その美しき競技開始方法をぶち壊すことによって勝利という実だけを得るものです。
「いくぞ!」「こい!」と合気を示しながら「なんちゃって」と躱す。少なくとも銭を貰ってよい相撲ではありません。

それでも、例えば平幕力士がまだ1度も勝ったことのない横綱や大関に対しての立合変化であったり、満身創痍で本来の力が発揮できずにいる力士が最後の手段として仕掛ける立合変化であるならば、それはまだ理解できるし、変化を食う方も食う方だと言えるのです。

が、役力士、ましてや優勝を争っている横綱や大関が立合変化を選択するというのでは、大相撲の第一人者である横綱や大関が大相撲の魅力の根幹を否定し葬り去ることになります。そんな大相撲では、そう遠くない将来に廃れてしまうことでしょう。

その意味では、役力士の相撲でも常態化している「張り差し」も、立合変化と同じ害があると言えます。

だってそうでしょう。合気で立合ったなら「張り」という一手が余計な分だけ当たり遅れるのが道理なのに「張り差し」をした側が先手を取っているということは、相手より先に立つか、相手を先に立たせるかして立合の機をずらしたところに「張り」を食らわしているということであり、立合の合気を偽装しているという点では変化と同じ。そして、その害も同じなのですよ。

以上のような理由で、私は変化と張り差しを忌み嫌っております。
おそらくは、変化や張り差しに対して私と同様に嫌悪感を抱く方々の潜在意識に上記のことが潜んでいるとも思ってます。

鶴竜の変化を批判するよりも先に、立合の形と中身を理想に近付ける努力をしなければならないと思います。
初代若乃花の二子山が鬼となって断行したような立合の正常化を望みつつ、この駄文を秋場所の講評に代えます。

九州場所こそは、満員御礼の垂れ幕に相応しい十五日間であることを祈ります。




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Comments (9)

  1. 相撲評論家

    こんばんは。

    私は今場所大幅に出遅れていますが…

    ところで、お書きの文章ですが、ちょっと飛躍が目立つように思います。
    14日目の鶴竜-稀勢の里戦については、少なくとも観客の期待と技術的側面とを峻別しないとまずいように思います。
    観客の期待という点においては、「が、役力士、ましてや」以下が成立するでしょう。
    ですけど、技術的なことを言えばあくまで喰う方が悪いです。
    ひとことで言えば(稀勢の里のまるで型外れな寄り身も合わせて)どっちもどっちだと思います。

    張り差しのほうはもっと無理がありますよ。
    合気で立てば張ると当たり遅れるという道理がまずありません。
    特に腕を大きく伸ばして張る白鵬タイプの場合は兎も角、小さく張る曙や東富士タイプの場合は合気でないとほぼ無理です。
    また、この理屈でいくと、鏡里が千代の山に殆ど突っ張られていないことも否定しなければならないし、増位山(息子)の存在なんか消えてしまいます。
    今場所玉ノ井が照ノ富士の張り差しを随分難じていましたけど、その栃東は12年7月に曙が慎重に張り差しにくる(前場所立ってすぐに引き落として勝っているので)と踏んだらまともに両手で押されて完敗していたりして…その辺の腹の探り合いぐらいは認めないと、大相撲は廃れてしまいます。

    Reply
    1. 甚之介 (Post author)

      相撲評論家様、コメントありがとうございます。
      やはり、と申しますか、相撲評論家様は変化を喰う側にお厳しい。A^^;

      そうですね、「観客の期待と技術的側面とを峻別」することは稀勢の里のためにも必要だとは思います。
      ただ、立合の外連味はもう少しなんとかならないものか。とも思ってます。

      さて、張り差しに関してですが、現在の大相撲では白鵬タイプがほとんどで、曙タイプ(東富士は観たこと無いのでノーコメント)はトンと観ない印象が強いです。そこで本文のような主張になりましたが、いかがなものでありましょうか?

      ~追伸~
      平成27年9月場所取組結果の更新を楽しみにお待ちしております。
      あ、督促ではございません。

      Reply
      1. 相撲評論家

        やっと7日目が終わりました。
        7日目の鶴竜の張り差しは曙タイプです。

        とりあえず取組結果を終わらせて、それから9月初日・2日目の観戦記と史跡案内の更新をしなければなりませんが、九州場所がすぐにきそうで…

        Reply
  2. 木村晶彦

    ツイッターでフォローいただいています。
    こちらでは初めてコメントします。

    上記相撲評論家様のご指摘に関連して。

    力士が稽古場で
    注文相撲や変化技を想定して稽古しないのは
    なぜなのでしょうね。

    圧力負けしない体躯を磨くことも大事ですが、
    それで負けてりゃ世話ねーや!バッカじゃねーの?
    というのが正直な感想です。

    あちらが勝つことに徹するのであれば
    こちらも勝つことに徹する他ないでしょう。

    もちろん立ち合いの美風は美風として
    尊重したいものであります。
    ジャン・コクトーが愛したような・・・

    Reply
    1. 甚之介 (Post author)

      木村様、コメントありがとうございます。

      Twitterではついつい条件反射的に述べてしまうので、ブログの方では文字数を割き、考えを構成し直して書いているつもりなのですが、まー相撲評論家様ならずともツッコミどころ満載になってしまいます。
      反省するところではありますが、率直なコメントを頂きますと勉強になりますので大歓迎。今後とも宜しくお願い申し上げます。

      にしても立合の美風、尊重したいものですね。

      Reply
      1. 木村晶彦

        甚之介さま

        ありがとうございます。

        彼が開き直ってくれたらまだよかったのですが、
        後になって弁解し始めたので失望しています。
        あれは勝負師や役者の美学に反します(私の中では)。
        怪我持ちであろうとなかろうと知ったことではない。

        とはいえ初めての一人横綱。
        白鵬という風除けがなくなって
        世論の風圧をまともに受ける格好になりましたね。
        地位の重みを嫌というほど実感しているのではないでしょうか。

        Reply
  3. 相撲評論家

    仕切りから立ちに移行するまではまさにジャン・コクトーのいうところのバランスの奇蹟が表現されるべきです(最近ここを渋るので緊迫感を喪っていますが)。
    少なくとも相撲を取っている当事者は、立ってからは反則以外の何をされても文句を言えないわけですし、相手の目的を達成させないようにするのも仕事です。
    但し、見る側の期待が那辺にあるかによっては、力士が何をしても見る側が文句を言わないとも限らない、ということで、当事者たる力士の意識と見る側の期待とは必ずしも完全一致するわけではないです。
    そして興行として公開競技を行っている以上、見せ方という点に当事者がどの程度まで(「勝つ」ということとのバランス上)軸足を移せるか、ということになっていくんですけど、鶴竜の変化については「やるべきでない」とまで言うことは可能だと思いますが「やってはいけない」ということは不当でしょう(これが立つなり足を蹴ったということになると後者にさらに傾くことになりますが)。
    「やってはいけない」まで進むと、北の湖の存在も危なくなり、若乃花1や栃ノ海は消えてなくなってしまいます。
    若乃花2は横綱初日早々飛んで負けてますが。

    > 注文相撲や変化技を想定して稽古しないのはなぜなのでしょうね。

    これは難しいところがあって、若いうちは二の次(あとはすり足で左右に動く稽古をすることで賄う)ということでもいいと思います。
    「相手のことを考えるのは大関になってから」と言ったのは三根山でしたか、それはちょっと極端かなと思わないではないですが、いずれにしても修行段階の初中期段階ぐらいだと相手云々より自分がどう取りたいかを最優先にやっていていいと考えます。
    無論、最初から捨象してしまって、変わられてコケても仕方がないと割り切る力士も何人か(何人か、が大事)まではいてもいいですけど、真っ向勝負を必要以上に謳って構えも何もなく攻めればいいというようになってしまうようではいけません。
    ただ、腰から下の構えを体に覚え込ませるだけでも全然違うはずですけど、それもできていないように思われますがね。

    Reply
    1. 木村晶彦

      相撲評論家さま

      はじめまして。
      丁寧でわかりやすいご指摘ありがとうございます。

      立ち合いに関しては私も同意見で
      見ていてイライラすることしきりです。
      稽古場や巡業でなんとかなりませんかね。
      ま、しょせん花相撲では無理ですか。

      変化への対応に関しても概ね同意します。
      しかし腰から下の構えがなっていないとなりますと、
      修行の初中期段階が誤っているのに加えて、
      相手のことを考えてもいないということで、
      いやはや目も当てられぬ有様ですなあ。
      敢えて誰とは申しませぬが。

      Reply
      1. 相撲評論家

        巡業の立ち合いはおしなべてきれいです。負けてもこれといって損がないので…

        見る側の期待>

        ということで私自身の発想を書いてなかったわけですけど、得意とする相撲振り・力量(関脇以下であれば将来への期待の側面が濃くなる)・体格からすると、一応突っ張りもあるが右を生かすために左で前褌を取って低く構える相撲が得意(ただしフットワークは良い)・力量としては並の横綱としてのものは具えている・体重は今や白鵬より3kg軽いだけ(場所によっては上回ることもある)、とくれば、変わり身は卒業しているはずなのでは?というように私自身は思っています。
        ただ既述のようにフットワークが良いところからして、ごくたまに素早い変わり身を期待する人がいても、絶対におかしいと言うことはできないかなとも思いますが。
        当事者は兎も角として、ファンの中でその辺を強いて統一すべきものとは考えません。
        腰から下ということでいくと、硬すぎて脆すぎる武州山ぐらいになると、寧ろあの足腰でよくあれだけの相撲を取ったということになるんですけどね。
        玉鷲あたりは判断が難しいですが。

        Reply

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